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興味を抱くと憑りつかれたようにどうしても行ってみたくなる場所がある。場所というより名前の響きに魅せられているのかも知れぬ。行ってみたところで、特別美しい景色に出会うことはない。おいしい話が転がっている訳でもない。たいていはただ藪を漕いで傷だらけになるのがオチだ。しかし、とにかく行ってその想いを成就しない限り頭に棲みついたまま離れることはない。2004年は引馬峠、そして2005年はヤケノママがそうだった。
初日行程: 浄土平(05:42)〜姥ヶ原東端(06:30)〜谷地平・白鳳寺遺跡(07:35)〜中吾妻への登り開始(08:22)〜中吾妻北峰(11:06)〜中吾妻鞍部(11:06)〜中吾妻三角点(11:39)〜吾妻山神社跡(14:15)〜ヤケノママ(15:57)
ヤケノママは中津川の奥地にあり、崖から蒸気が立ち上る場所であるという。語源は「焼ノ間々」か「焼野間々」で、「焼けて熱い崖」という意味であろう。吾妻山修験の地獄駆けコースより上流側にあるが、「間々」という言葉に山岳仏教の名残が感じられ、あるいは昔の修験者が入り込んでいたかも知れぬ。また、この地は何万年も前に閉じ込められた岩魚の聖域であるとも言う。しかもかつての登山道は消え、常人では行けない。現在訪れるのは沢登りの連中のみである。これだけでも十分に自分を惹きつけ挑戦意欲をそそる要素が揃っている。7月に初めてヤケノママ行きに挑戦したが、吾妻山は予想以上に手強く、天候も安定しないため撤退。ヤケノママ行きは翌年に持ち越しかと思われた。
その後、中津川の情報を探していて驚くべき情報を得る。昭和の初期に木材搬出を目的とした猪苗代森林鉄道なるものが西吾妻山の中腹に建設され、終点がヤケノママであったというのだ。小野川不動滝の下に砂防堰堤ではない人工的な構築物があり不思議に思っていたが、猪苗代森林鉄道の橋脚跡であったと知り納得。ヤケノママなる秘境にかつて人の手が入っていたとなれば、廃なるものへのあこがれが黙ってはいない。天候が安定する初秋に再び挑戦することにした。せっかく行くならば天然記念物的な岩魚達にもお目にかかりたい。秋に産卵期を迎える渓流魚は保護のため9月20日を以って全面的に禁猟となる。ということは9月17日からの3連休が唯一の機会となる。良い天候に恵まれることを期待して計画を練った。
計画は浄土平を基点とする周回案である。一日目は谷地平経由で廃道を辿って中吾妻山を越え、吾妻山神社跡からヤケノママに抜けて一泊。翌日は渓流釣りをしながら中津川を遡行し、県境尾根を縦走して一切経を経て浄土平に下山する。体調次第で山中2泊、もしくは県境尾根縦走を短縮して谷地平経由で戻ることも選択肢の一つだ。最悪の場合は西吾妻経由で西大巓をデコ平に下り、猪苗代の実家に立ち寄り浄土平に戻ることも可能。山歩きの最終目的は無事に帰ることにあるから、状況に応じて最も安全な解を選ぶ。
8月は天候が安定せず、仕事の疲れもあって、帝釈山・田代山に行った以外は山歩きする気になれなかった。その分、山の神が恵んでくれたのであろう、9月17日からの三連休は安定した秋晴れが見込めるとのことだった。16日の残業時間に飛び込んできた仕事をなんとか片付けてから現地に出発したので、福島市から国道115線に入り土湯温泉を通過する頃には既に深夜1時を過ぎていた。放射冷却で冷え込みが厳しいので浄土平まで行くのは止め、野地温泉の手前の空き地で車中泊。
17日は朝から快晴で、5時に行動開始。磐梯吾妻スカイラインに進入し、浄土平のビジターセンターの奥の駐車場に車を停めた。既に何名かの登山客が準備をしているが、こちらは寒いのと寝不足でいまひとつ気合が入らない。隣に車を停めた男性が慌しく準備して軽装で出発していったのを見て行動開始。
冷え込みが厳しくなってきているし、何が起きるか判らないので装備を怠るわけにはいかない。ツェルトは不快なのでいつものテントを所持。着替え、防寒着、シュラフ、3日分の食料に加え、釣り道具まで所持。水場には困らないので飲料水は3リットルに抑えたが、それでも重くてかなわん。浄土平は寒かったが、姥ヶ原への登りで早くも汗をかき、しばし休憩。浄土平に最初に来たのは小学校に入る前で、当時勢いよくガスを噴出していた一切経山に父について登った。最後に浄土平に来たのは30年以上前の小学校の遠足の時だ。このときはバスに酔って浄土平に着いたとたんにゲロを吐き、一人バスに居残り吾妻小富士に登れなかった。よって、浄土平にはあまり良いイメージが無い。
姥ヶ原の木道を歩き、西端の姥神石像を拝んで谷地平への下りに入る。
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姥ヶ原西端から見る中吾妻山 初日 6:36
地獄駆け回峰行の修験者は、中津川を遡行して権現沢の吾妻山神社に詣でた後、中吾妻山の鞍部を越え、大倉川を渡渉して谷地平の白鳳寺を経由して浄土平方面に抜けたという。
写真の左側のピークに中吾妻山の三角点が設置されている。右側のピークは中吾妻山の北峰で、標高は三角点峰とほぼ同じ。修験の道に起源を持つと考えられる中吾妻越えの旧登山道は、写真の山の向こう側にある権現沢を登り、三角点峰と北峰の間の鞍部を越えてくる。中吾妻越えの後、やや北側の谷地平に抜けるために、鞍部から北峰の中腹を横切るように下ってくる。
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ここを下るのは7月に続いて2度目。悪路のタフな下りなので、慎重に足を運ぶ。しばし立ち止まったとき、背後でガサッと音がした。どんな動物なのかと思っていたら人の姿が見えた。今まで山で人に抜かれた経験は無いので、ちょっとした驚きである。朝から抜かれるのも癪なのでいつものペースで歩いていたら、下りなのにしこたま発汗。疲れているせいか、何でもない場所で転んで泥だらけ。洗濯をかねて姥ヶ沢をジャバジャバ2回渡渉して谷地平の南の三叉路に向かい、谷地平南歩道に入って白鳳寺遺跡到着。
ここから姥ヶ沢の川原を見下ろせる。後ろを歩いてきた男性が川原で釣りの準備開始。道理で先を急いでいた訳だ。当方は西進して大倉川の渡渉点に向かう。渓流釣り師が辿るため明瞭な踏み跡が維持されているが、朝方の冷え込みでチシマザサの葉が結露していてズボンがぐっしょり濡れてしまった。このまま渡渉して対岸の藪に入ったら全身ずぶ濡れになりそう。あまりに大倉川の渓相が良いので、朝露が乾くまでしばし餌釣りして時間つぶし。渡渉点のすぐ下流に大場所がある。いかにも大物が潜んでいそうな気配なので、赤ブドウ虫を放り込んでみた。ところが魚の代わりに下流から釣り客が現れたのでびっくり。ここは栃木県の大蛇尾川並みに釣り客が多いようだ。ハイプレッシャーの川らしく魚の反応は無かった。
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大倉川渡渉点 初日 8:22
白鳳寺遺跡から大倉川渡渉点までは踏み跡が明瞭。中吾妻山に行く登山者はいないので、歩くのはほぼ100%岩魚釣り師である。
渡渉点はフライフィッシングロッドを振りたくなる素晴らしい渓相。上流側正面には県境の烏帽子山が見える。谷地平を中心とした広大な地域の降水を集めるので標高1,500mにしては立派な流れだ。谷地平周辺の大倉川本支流は昔からイワナ釣りの名所である。
左岸側にも踏み跡が続き、しばらくは笹が刈られているが、小さな湿原で消える。原生林を登っていく途中、短い区間ではあるが古い赤ペンキが幹に残されているのを確認した。しかし、道形は残っておらず完全に廃道と化し、これを正確に辿るのは困難。もともと辿る人は多くはなかったようである。
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40分ほど待っている間に朝日を浴びてだいぶ露も乾いてきた。いよいよ中吾妻への登り開始。笹刈りされていて道は明瞭。笹刈りが無かったら歩くことは困難なはず。てっきり明確な意思を持って登山道整備をしたと思い込み簡単に登れると期待した。しかし、笹刈りされた道は幾つかに別れ、その全てが行き止まりとなる。だいぶ行きつ戻りつした挙句に、真ん中の道の終点であるリンドウが咲く湿原の奥に進入。一旦藪に入ったら視界が利かないので適当に登るしかない。地図に拠ると旧道の破線は中吾妻北峰の中腹を3回横切って鞍部に至る。よって、できるだけ南寄りに歩くことを意識して登っていった。
少し歩きやすく感じる場所で赤ペンキ発見。登山道の続きを発見できたという喜びもつかの間、すぐに見失う。おそらく谷筋に向けて南に曲がっているのであろう。どのみち踏み跡は無いので、自分の判断力を信じて先に進む。だんだんチシマザサの藪が鬱陶しくなってきた。ダケカンバの木が多くなってきたので藪が濃く直登は得策ではない。たまたま視界が開けて、一つ南側の尾根が見えた。旧登山道は標高1,800m過ぎまでその尾根上にあるはず。よって、藪の薄い場所を選んで南の尾根に移動。
南側の尾根はアオモリトドマツの倒木が多くて歩きにくい。間違いなく地図の破線路を辿っているはずなのに、相変わらず赤ペンキも赤布も無い。このまま尾根を登りつめると北峰山頂の南側に出る。姥ヶ原からは北峰の頂上が笹原になっているように見えた。笹原歩き=痙攣というイメージがあるので、できるだけ北峰山頂には出たくない。しかし、鞍部に向けて山腹を横切ろうにもチシマザサ藪が酷く無理。観念して上方に向かった。こちらもだんだんアオモリトドマツがまばらになってきて藪が濃くなる。ついにびっしりチシマザサが生える急斜面に入り、腕の力を使って体を持ち上げるような感じになる。やれやれこの先どうなるのかと思った矢先に急に視界が開けた。
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中吾妻山北峰からのパノラマ 初日 10:36
北峰の東側斜面は森林限界で、膝から腰高のチシマザサやホツツジ等で草原状となり眺望がすこぶる良い。写真中央が谷地平湿原。やや右側の大きな山が東吾妻山で、その左の鞍部が早朝に越えた姥ヶ原。画面左には福島県と山形県の境界となる吾妻連峰が連なる。
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遠くから笹原のように見えた中吾妻北峰の東斜面はまるで姥ヶ原のような植生で、リンドウが咲いていた。北峰頂上の東側斜面は森林限界となっていて遮るものがない。大倉川流域一帯の大パノラマを見渡せる。旧登山道をはずしたおかげで思わぬ拾い物をした感じ。
南北に連なる稜線に近づくにつれてアオモリトドマツの背が高くなり藪となり、少し西側に逸れるとアオモリトドマツが高く日陰が多いために藪が薄くなる。適当に藪の薄い場所を選んで鞍部へ下る。目的地の鞍部には小ピークがあり、この山にしては珍しく岩が露出している。旧登山道の破線路は小ピークの南側を東西に走る。
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鞍部にある登山道の痕跡 初日 11:06
写真は権現沢(西側)を見た図。鞍部にはチシマザサの密藪は無いものの、明るい疎林なので棘だらけの植物が混じって雰囲気が悪い。権現沢方面に下ると、立ち枯れ・倒木・チシマザサと雑木の混合藪でさらに雰囲気が悪くなる。昔の道跡を辿るのは現在では100%不可能。
中吾妻山三角点峰(南峰)は元々登山の対象にされておらず、鞍部から山頂に至る道は無い。
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アオモリトドマツに打ち付けられたブリキ板発見。昔は「東・谷地平方面」・「西・吾妻山神社」などと書かれていたことであろう。これ以外に鞍部には何も痕跡が無かった。2003年に鞍部まで辿った記録では、たいして苦労した様子もなく、ずっと赤布を拾って鞍部に登り、吾妻山神社方面へ抜ける道跡も確認したとのことだった。嘘ではないのだろうが、楽に辿れると思ったらとんでもない。基本的に何もないと心得ておいたほうが良いだろう。
さてここからは中吾妻山の山頂へ向かう。標高差は70m弱。Web上では登山したという記録が見つからないのでどんな場所なのか予想がつかない。鞍部から尾根を南下するだけなのでルートは簡単。密な藪ではないが、稜線がはっきりしているのでアオモリトドマツとチシマザサに加えてハクサンシャクナゲの藪も混じる。シャクナゲの種類が違うところが東北の山らしい。藪尾根ではあるが東側の眺めは北峰同様に素晴らしい。
登るにつれて勾配が緩くなり、ダラダラと藪漕ぎが続くので少々つらい。山頂は広い平坦地で眺めは無く藪が濃い。三角点は西南端にあり、密なハクサンシャクナゲの藪に護られていた。
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中吾妻山三角点から見た裏磐梯 初日 11:39
山頂部の西南端のハクサンシャクナゲの藪を抜けると三角点に至る。中吾妻山は位置的に西大巓より南側の眺望が優れており、三角点からは猪苗代湖と裏磐梯を一望できる。
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中吾妻山の三角点(1,930.6m)は測量した跡があったが、山名板のようなものはなかった。何もないのが福島の山らしくて良い。猪苗代町から見る吾妻山といえば西大巓、西吾妻山、そしてこの中吾妻山を指す。あこがれの場所の一つを訪れることができて十分に満足。あとは慎重にヤケノママを目指す。
旧登山道跡に復帰し、権現沢方面へ下った。なんとなく道跡のようなものはあるが、さっそく倒木が現れた後はまったく判別できなくなった。権現沢の源流域となる広い谷は荒れ果てた印象で、立ち枯れ寸前のアオモリトドマツの大木が多く、明るいため藪化が著しく、倒木も多い。歩きにくいので沢に下ってしばらく沢底を下った。あまり勾配がきつくならないうちに左岸に上がり、森林の中を下った。ところが左岸に明瞭な尾根は無いので、沢の斜面に沿って沢と距離を保って下るのは難しい。密な藪や倒木を避けているうちに沢に近づいてしまう。再び斜面を登って沢から離れても、勾配に忠実に下るとまた沢に近づく繰り返し。しかも、この一帯は岩が大きく隙間だらけで、さらに木の根が張っており、針葉樹の落ち葉が薄く積もっているので太腿まで踏み抜ける。下手をしたら骨折して死ぬのは確実。7月に感じた恐怖が現実のものとなった。何度めか踏み抜いた瞬間に両脚が攣って一休み。最後の手段としてバッファリンを一錠噛み砕く。ここの下りを甘くみると本当に命取りになる。昭和50年代にここで若者が行方不明になった理由が解るような気がした。
徹底して西に向かえば吾妻山神社跡に向かう登山道に降り立つことができるはずだ。しかし、7月に歩いた登山道は不明瞭であったので気づかずに通り過ぎる怖れがある。あまりに地形に特徴の無い藪中なので権現沢から離れる勇気がなかった。薄い赤ペンキを一回、真新しい赤布を二回見つけた。しかし、道跡もマークの続きも見つけることはできなかった。今回歩いたコースで最も難易度の高い場所である。下り始めて2時間が経過し、吾妻山神社跡に至る登山道に出会わないまま権現沢の崩壊ガレ地が見えてきた。7月に吾妻山神社跡に至った時は最後の最後まで崩壊ガレ地を見た記憶がない。今回はだいぶ権現沢に近いところを下ってしまったということになる。
ヤケノママに至る道筋を示す赤いペンキが見えたので沢を右岸側に渡った。よって、今回はご神体を見ていない。沢登りの人たちが吾妻山神社を見つけようとして権現沢を遡行しても見つけられなかったとか、登山道を見つけられなかったという話がWeb上にある。今回、権現沢を下ってみてその理由が解った。吾妻山神社跡が沢本流沿いではなく、権現沢左岸から流れ込む細い沢にあるため、皆気づかずに通り越してしまい、左岸側に上がった場所をいくら南に向かってもはるか下方にある登山道には行き着かないのである。
崩壊ガレ地を横切り、刈り払われたチシマザサ藪の斜面を登り、アオモリトドマツの原生林に入り、7月に撤退した地点に到達。ヤケノママまで地形に特徴の無い原生林を2km弱北上するのである。前回は天候が悪く、マークの続きを見つけることができずに安全策をとって撤退した。今回は快晴で精神状態が安定しており、絶対に突破できるという自信がある。赤ペンキや赤布のつき方から次のマークの位置をほぼ正確に予想し、密なチシマザサ藪の向こう側にある次のマークを拾うことができた。権現沢の下りとは違って、こちらは踏み抜けの恐怖は無い。藪の様子は引馬峠から孫兵衛山へ向かう時の雰囲気に似ている。ただし、尾根歩きではないので気が抜けない。だんだん日が西に傾き、赤いマークが拾いにくくなってきた。そろそろ藪歩きの時間切れであろう。継森から下ってくる沢に達し、ようやく現在位置を特定。ヤケノママまであと約300mである。沢を渡った後はマークが見つらなくなったが、ここまで来ればこっちのもの。北に向かってヤケノママを見下ろす高みに出て、やや急な斜面を樹木につかまりながら滑り降りた。行動時間は10時間強だが、すさまじい初日の藪歩きを無事終了。
時間があれば朱滝に降りるつもりだったが、藪歩きに時間がかかりすぎ今回は無理。体力も残っていなかった。ヤケノママの下流に小さな沢が中津川左岸から合流するやや開けた場所がある。大雨が降った場合は氾濫原となるらしいが、支流の横に一応テントを張れそうな場所がある。近くに焚き火をした跡もあった。石がゴロゴロしているので、藪中からチシマザサを刈り取ってきて下敷きにして快適な寝場所を設営。テントを設営していて中津川左岸の岩上に小さな物体がたっているのに気づいた。近づいて見ると、小さなおもちゃのお地蔵さんが簡易セメントで固定されている。わざわざこんなものをヤケノママまで運んでくるとは、遊び心のある人もいるものだ。
谷底は既に日陰になっているが、日暮れまでにはまだ時間があった。4ピースのフライフィッシングロッドを取り出し、自作のフライ:ヤケノママスペシャルを試す。本命の場所に投げる前に、練習のつもりで目の前の流れに無造作にフライを流したらいきなり岩魚が食いついた。手付かずの自然な流れとはこういうものなのだろう。一日歩いて一匹も釣れない栃木の川はただの水路だ。フライでヤケノママの岩魚とご対面するという夢もあっさり達成し、気持ちに余裕を持って蒸気の噴出する地点まで釣り上がった。ドライジェルを忘れたのでウェット状態でキャストして感で合わせるしかなかったが、それでも何匹かと対面することができた。20代のときに石城謙吉氏著「イワナの謎を追う」を読んで、瀑布の上流に棲息するイワナに興味を抱いた。その後、スキー場ができる以前のデコ平でチシマザサの藪中に豊かな水量の川が流れているのを見て以来、吾妻山のイワナは私のあこがれの一つだった。
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ヤケノママ 初日 17:38
ヤケノママは右岸側が崖になっており、左岸側は沢が一筋合流するのでやや開けている。合流点より200m程度遡った地点の左岸の崖に一箇所だけ蒸気が上がる場所があり、かすかに硫黄臭が漂う。
沢に温泉成分を含む水の湧き出しが何箇所かあるが、湧出量は少ない。
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濡れた衣服を全て着替え、脱いだ服は水洗い。風のほとんど無い静かな夜。谷底は冷え込みが厳しく、テントの外側はすぐにびっしょり結露した。虫の音は無く、夜行性の鳥のシンシンシンという鳴き声だけが響く。中津川の沢音が気持ちを落ち着かせてくれる。2時間ほど眠って目が覚めた。仲秋の名月が谷間の空に懸かっていてとても明るい。実家の母はおそらく翌日の十五夜のお供えを準備しているであろう。子供の頃の月見が懐かしく想い起こされた。じっとしていると冷えるので熟睡はできなかったが、秘境に一人でいることなど忘れて安らかな気持ちで朝を迎えた。
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