私に ヤケノママまでの下り方を教えてくださった 「高原山探訪」さんが、’08年09月でHPを閉鎖しそうだ・・・。“道なき道”の歩行記録はとても貴重である。せめて、吾妻山修験跡シリーズだけでも、私のHPに残そうか・・・?

御本人も、「Copy right はつけいていなし、出典を明記すれば公的な所に使って良い。」と書いて いられし・・・。


吾妻山神社詣で(吾妻山修験の跡探訪その1)(2005年7月)
年月日: 2005.07.13
目的: 吾妻山神社〜谷地平及びヤケノママの道筋確認
出発点: 磐梯吾妻レークライン(標高約750m)
到達最高地点: 標高約1,625m)
到達最遠地点: 吾妻山神社跡から数100m奥(標高約1,550m)
天気: 晴れ後曇り
出発時刻: 07:02
帰着時刻: 18:05
総所要時間: 11時間03分(内1時間は無駄歩き)
遭遇した動物: 無し
中津川レストハウスから眺めた中吾妻山  07:40

中津川左岸のレストハウスからは西大巓、西吾妻山、中吾妻山、磐梯山が見渡せる。レストハウス横に中津川渓谷歩道の入り口がある。中津川渓谷歩道はただ森林の中を歩いて中津川の左岸に降りて終点となるので、適当に左岸を歩き、右岸沿いの林道が左岸に渡る橋の袂から未舗装の林道に抜ける。沢底に降りる直前に不明瞭な踏み跡があるので、これを辿っても林道に抜けられると思われる。

車両進入禁止の林道の整備状態は良い。中津川登山道(沢登りコース)の分岐、議場集落跡を過ぎ、道なりに進む。議場集落跡と出森山の周辺には破線がいくつも記されているがいずれも廃道である。中津川から延びる林道と金堀集落から登ってくる林道がぶつかる地点に吾妻山神社登山道の入り口標示がある。ここから唐松川までは林道支線を進む。

吾妻山神社登山道入り口の姥神石像  08:43

林道支線に入ってすぐの所にある姥神様。とても優しいお顔をしている。2万5千分の1の地形図には鳥居記号が記されているが、他に神社の類は無いので、姥神様を指しているらしい。

唐松川に架けられていた木製の橋は朽ち落ちてしまっているので、渡渉する。かつて唐松川右岸沿いに林道が有り、うっかりすると藪化した林道に引き込まれるので注意。渡渉した対面を良く見ると「吾妻山歩道」と書かれた白い杭がある。最初はジメジメグチョグチョした杉林を直登する。

カラマツ植林地帯と笹藪  15:52(帰りに撮影)

杉林を抜け、左にミズナラ林を透かして中津川渓谷の空間を感じながら進むと、広いカラマツ植林地帯に入る。カラマツ林にしてはめずらしく良く手入れされていて雑木が混じっていない。林床は腰から胸程度の高さのクマイザサ然とした美しいチシマザサ。勾配の緩急に関係なく真っ直ぐ登っていく。道は明瞭で大変歩き易い。

カラマツ植林地帯から美しいブナ林に抜けると突然にチシマザサの丈が高くなる。ブナの大木が目立つが、そのさらに奥にワイヤーが転がっているので決して原生林ではないらしい。ブナ林を登っていく途中で右側に沢音が聞える。ほんの少し藪を掻き分ければきれいな沢水を得ることができる。このコースは水場には不自由しない。

アオモリトドマツ原生林の雰囲気
14:46(帰りに撮影)

ブナ林からアオモリトドマツ原生林に移ると途端に雰囲気が悪くなる。吾妻山山系を覆う火山噴出物はほとんどがゴツゴツした岩で、土壌が少ない。岩を覆うようにアオモリトドマツの根が張り、倒木も多く、登山道は不明瞭で、赤ペンキや赤布の案内無くして迷わず辿ることは不可能。倒木で開けた空間にはチシマザサがすかさず密藪を形成する。窪みには腐食物が堆積してぬかるむ。常に湿度が高くジメジメしており、至る所滑りやすく気が抜けない。生えている植物は似ていても、中生代の地層が隆起・浸食されて表面がなだらかな帝釈山地に較べてはるかに難易度が高い。

山体そのものは浸食があまり進んでおらず、起伏の少ない広大な山地なので迷いやすい。おまけに歩きにくいし、沢に降りたら崖の連続で遭難は確実。吾妻山系はとにかく道をはずさないことが鉄則。

ギンリョウソウとゴゼンタチバナ  11:39

7月の花ギンリョウソウは一般に笹藪の中に多く見られるが、ここでは薄暗いアオモリトドマツの原生林の中にごく普通に見られる。

原生林に安置された姥神石像  12:26

一旦、岩と木の根がゴツゴツした不明瞭な道を数十m下る。権現沢に近づいたのかと思わしめるが、再び中吾妻山方向に緩やかに登っていく。この辺りの道筋は2万5千分の1地形図とはだいぶ異なる。

本当に正しい道を辿っているのか不安になった頃に、薄暗い林の中に鮮やかな赤い衣を着せられた姥神石像が目に入る。ちょっと不気味なお顔に見えるが、結界を張って修験者を護ってくれるありがたい存在である。

吾妻山神社跡(温泉の沢)  14:02(帰りに撮影)

これが道なのか?と思わしめる場所を権現沢に向かって急降下。藪が覆いかぶさった沢沿いには何も見当たらず、少し下った右岸側に4畳程の平坦な更地がある。テン場とは思えないので、おそらくこれが吾妻山神社跡であろう。
沢に出たところで上流側を良く見れば、吾妻山神社のご神体である石碑に気づく。石碑には「奉納 吾妻山」「信夫郡平野村、中野村(+奉納者名)」「大正十五年三月」の字が彫られている。三月は当然旧暦で、深い残雪期に奉納したということになろう。信夫郡とは福島市方面のことであるから、当時は浄土平〜姥ヶ原〜谷地平〜中吾妻山北側の鞍部を経て運んできたと思われる。現在も修験道は受け継がれており、平成十三年と十四年の本山修験信夫先達会による再興入峰の「吾妻山大権現○」と書かれた木札が奉納されていた。この沢は権現沢左岸の小さな支流であり、石碑の横から温泉成分を含む温水が流れ出ている。

権現沢の崩壊ガレ地から見た西吾妻山中腹  13:00

全コースで唯一視界が開ける場所。かつて地獄駆けの修験者はこの沢を遡行してきた。

道は吾妻山神社跡地のすぐ先の崩壊ガレ地に向かう。崩壊ガレ地の中に幾筋かの水の流れがあり、ガレ地そのものが沢のようになっている。ガレ地に生えている樹木はいずれも若く、崩壊したのはそう昔のことではない。崩壊地の地面は温かくかすかに硫黄臭もする。ミニヤケノママといったところか。
ガレ地の岩に赤ペンキで矢印があり、半信半疑で進んでみるとガレ地を横切った先に新しい赤布があり、ノコギリやナタで樹木の枝やチシマザサ藪を切り拓いた跡があった。途中で赤布はまばらとなり、チシマザサの中に消えるので、その先がどうなっているのかは不明。道跡は全く残っていないが、古い赤ペンキと「議場」と書かれた古い道標が木に打ち付けられていたので、ヤケノママに至る道が二十年ほど前まで辿れたことは間違いない。

吾妻山は福島県と山形県の県境に跨る、火山活動によって形成された広大な山体である。このうち、郷里の猪苗代に属し、西の中津川渓谷、東の大倉川渓谷に挟まれた中吾妻山と継森を中心とした山体は一般の観光客が入り込めない秘境である。中津川渓谷の出口付近は磐梯吾妻レークラインが走っているので、秋の紅葉の渓谷美を求める観光客で賑わう。大倉川も堰堤地帯には渓流釣客の姿が多い。しかし、どちらの渓谷も奥部は険しく、沢登りの人たち以外は入り込めない世界である。

この地域でまず着目したのは中吾妻山だった。こんな立派な名前がついていながら登山道が無い。アクセスしにくいだけでなく、西吾妻山と同じ様にアオモリトドマツに覆われているため登っても景色が期待できないためと思われた。ところが、山頂近くの鞍部には大倉川から中津川方面に抜ける峠道を示す破線路が記されている。登山路にしてはおかしい。ガイドブックにも紹介されていない。Webで調べたところ、かろうじて大倉川方面から鞍部まで辿ることは可能らしい。目的は何だったのか?どうやら中吾妻山西側中腹にある吾妻山神社に詣でるための道であったらしい。中津川渓谷を遡行する地獄駆けのことは父からも聞いたことがあったが、現代でも沢登りのベテランしか入り込まない場所なので、そのときはにわかには信じられなかった。吾妻山神社の存在を知ったことで、俄然、出身地の回峰修験行に興味が湧く。

この地域の修験道の中心となったのは現在の磐梯町にあった慧(え)日寺であった。大同2年(807) 徳一が行脚してから隆盛を極め、盛時には子院3800坊、寺僧 300人、僧兵数千人、寺領18万石を誇った奥州随一の大寺であった。元々は磐梯山信仰から発したと考えられるが、これに慧日寺の山岳仏教が合わさり、厩山、猫魔ヶ岳、磐梯山、吾妻山(一切経山)、安達太良山を巡る様々な回峰行が発生した。このうち、中津川渓谷を遡り権現沢の吾妻山神社へ至るコースは地獄駆けと呼ばれた。

この地域の山岳信仰については http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/fukusima3.htmが、より詳細については慧日寺資料館の資料が参考になると思います。

吾妻山神社から北に向かい県境の登山道に抜ける破線路も存在する。途中にはヤケノママなる地名がある。ヤケノママとは「焼野間々」すなわち地熱で温められた崖という意味にとれる。実際に行った人の記録ではまさにその通りらしい。しかも何万年も前に閉じ込められた岩魚の聖域でもあるという。普段、栃木の山を歩きながらも中吾妻山とヤケノママのことが頭から離れなくなった。夏休みに帰省したついでに登ろうと、昭文社の「山と高原地図 磐梯・吾妻」と国土地理院の2万5千分の1地形図「吾妻山」を購入して計画を練った。

計画はいつもの大雑把なもので、基本的には、中津川から林道を歩き、中吾妻山中腹ルートを通って吾妻山神社へ至る。その先のヤケノママに行く破線路の状態を確かめてから中吾妻山に登る。その後の選択肢は3つあり、@継森経由でヤケノママに抜ける、A再び吾妻山神社へ下ってヤケノママに抜ける、B中吾妻山から破線路を辿って谷地平に抜ける。最後はいずれも蒲谷地へ下って周回する計画であった(結果的には天候が安定せず安全策をとったため、周回をあきらめて往復することになった。)。

周回前提なので林道に車で入り込む訳にはいかない。磐梯吾妻レークラインを金堀から中津川に向かう途上に車を停められる日陰を見つけたので、ここから歩いていくことにした。

07時02分 磐梯吾妻レークラインから歩行開始(標高約750m)。   磐梯吾妻レークラインは秋元湖北岸に沿って尾根を横切るように走っているので距離が長く起伏も多い。朝の気温が17℃と低いので助かったが、前日の降雨で湿度が高いので、朝日を浴びる区間ではすぐに発汗する。

07時40分 中津川レストハウス到着(標高約840m)。   周回でなければここに車を置いていける。本日は快晴で、西大巓、西吾妻山、中吾妻山のいずれも雲が消えつつあった。レストハウス左の遊歩道に進入。道は次第に高度を下げて中津川の左岸に降り立つ。その先に道は無い。しかたがないので沢沿いに上流に向けて歩き、林道の橋の上流側で林道へ上がった。

08時01分 中津川登山口到着(標高約855m)。   中津川左岸の断崖上を歩く破線路が権現沢の1.5km手前まで続いている。その先どうやって進むのかは不明。草むらに落ちていた古い登山案内板には「中津川遡行者に告ぐ。このコースは下の土場から観音滝を過ぎ、上の土場まで東岸中腹を登ります。そこから沢遡りとなり、神楽滝50m下で東側の山腹を巻き、靜滝、熊落し滝、朱滝とこれを繰り返し、ヤケノママまで実動8時間、全行程 県境尾根を通り抜けるのに2日を要します。ご注意下さい。」とある。沢遡りの愛好家はもっと下流から沢底を歩き白滑八丁などを楽しむらしい。

昭和22年8月末、会津工業高校3年だった父は仲間と共に中津川を遡行している。友人の兄が山岳会員で地獄駆けコースの経験者であったため、その話を聞き修験コースを辿って吾妻山神社を目指したらしい。バスで秋元湖入り口まで移動し、秋元湖畔を歩き、最初から中津川左岸を遡行していったという。観音滝をはるかに過ぎたころ、にわかに空が掻き曇り、ものすごい土砂降りとなった。みるみるうちに中津川は増水。逃げ場所が無く、皆慌てて必死に沢を下り、なんとか東京電力の取水堰(中津川から中ノ沢経由で小野川湖に導水)まで達した。ひとりが空身でロープを持って渡渉し、皆ロープにつかまり右岸へ移動。東京電力の小屋に避難はしたものの全身ずぶ濡れ。寒くてかなわんということで小屋の壁の板を引っ剥がして燃やして暖をとったが、どうやって飯を食ったのかは覚えていないとか。

さて、林道は通行禁止になっており、誰に遭う可能性も無い。前日の降雨のせいで、道路にはみ出た草が触れるだけで既にズボンは濡れてしまっていた。快適な林道歩きのはずであったのだが、腹の調子が悪く2回も雉射ちとなりフキの葉っぱのお世話となる。

どの辺りが議場集落跡なのかは気づかなかった。こんな山奥に集落があったとは驚きだが、小倉川の奥には今も集落があるのだから猪苗代町は広く深い。きちんと調べた訳ではないが、昭和30年代頃までは木材の切り出しを生業とする人達の集落があったらしい。当然の如く、近くの破線路は皆廃道である。

08時38分 吾妻山神社登山口到着(標高931m)   ガイドブックに書いてある入山届けを入れる物など無い。神社を探してしばしウロウロするも見つからない。登山口から入ってすぐの穏姿菩薩(姥神石像)は祖母の顔によく似ていた。

08時52分 唐松沢を渡渉(標高約975m)。   木製の橋は朽ちて崩壊。楽に飛び跳ねて渡れる。よさげな滝壺があるが、お魚さんは不在。渡った先にも林道が続いていたらしく、踏み跡がある。ここで地図を見ないで安易に林道跡へ進んでしまった。林道がそっくり残っている場所もあるが、ほとんどはチシマザサに隠れてしまっている。雨露でぐっしょりになりながら藪を漕ぐが沢から離れる様子が無い。そのうち沢を渡渉する場所に出た。渡ろうとして足が滑りしこたま向う脛を打ちつける。踏み跡はさらに対岸側に続くが、さすがにおかしいと思って地図を見て間違いに気づく。いったいどんな人物がこの道を歩いているのか不思議だ。

09時57分 渡渉地点に復帰・吾妻山歩道に入る。   渡渉点に戻って良く見ると「吾妻山歩道」と書いてある。いきなり1時間の無駄歩きでガックリ。しかし、怪我の功名というやつで、このおかげで無事に戻れたのかもしれない。

しばし登るとスギ林からカラマツ林に抜けた。よく手入れされた林で、開いたばかりの笹の葉が美しい。雨露にぬれてぐっしょりの上着を脱ぎ、以後はTシャツ一枚で通す。特に藪は無いので問題ない。

10時54分 カラマツ植林地からブナ帯に抜ける(標高約1,300m)。   突然チシマザサ笹の丈が高くなった。周囲を見渡すといつのまにかカラマツ林からブナ林に変わっていた。大木の数は多くはないが、緩い勾配の見事なブナ林である。エゾハルゼミの鳴声を聞きながら快適に歩いていくと、右側に沢音が聞えてくる。すこし藪を掻き分けて沢できれいな水を補給。ここはまともな沢だが、この時期は小さな沢でも水が流れているので水の補給には困らない。

11時28分 針葉樹林帯下限到達(標高約1,450m)。   明るい疎林で、チシマザサが鬱蒼としている。足跡は残っていないが、新しい筍がへし折られているので何日か前に歩いた人たちがいることが判った。だんだん岩がゴツゴツしだしてアオモリトドマツが鬱蒼としてくると雰囲気が悪くなる。岩は苔むしてツルツル。張り出した木の根もツルツルで足をはさむ危険大。要所に赤ペンキが塗られていて、新しい赤布もあるのでなんとか辿れるが、ガスにまかれたら歩く自信が無い。まったく特徴の無い樹林帯を歩くので、いつもの尾根歩きの感覚は通用しない。栃木県にこんな怖い場所は存在しない。この時点で藪漕ぎする気力は無くなっていた。

時折、古いブリキ板の道標が現れる。皆、「議場」と読み取れる。だいぶ昔に消えた集落の名なので、古いものに違いない。

12時26分 姥神石像到達(標高約1,625m)。   姥神様のおかげで大体の現在位置を特定。まだ神社までは遠い。腹が減ったが、吾妻山神社に着いてから昼食にしたいので、小さなパンで我慢。

やっと道が下り始めて、権現沢に近いことを知る。中吾妻山北の鞍部へ登る破線路の分岐点を意識しながら下ると、それらしき場所があった。大きな岩に不明瞭な赤ペンキのマークがある。何故か自分が歩いてきた方向は×印。反対側に○印。でも○印の上方には道跡を視認できなかったし、赤ペンキや赤布の類も見当たらなかった。足元に落ちていたA3サイズのビニールケースを拾い上げて汚れを落としてみると、昭和50年にここで消息を絶った息子さんに関する情報提供のお願いが書かれていた。息子さんを失った両親の悲しみがひしひしと伝わってきて、くれぐれも遭難だけはできないと自分を戒めた。いったい何があったのだろうか?とにかく道に迷ったのは間違いない。迷って沢方向に下ったら確実に死が待ち受ける。じっくり慎重に山の上に向かえば登山道に復帰できようが、体力的が尽きたか、足の骨を折ったかして動けなくなったのかもしれない。見つかる可能性はゼロだ。

13時00分 吾妻山神社跡到達(標高約1,525m)。   一旦道は沢で消えた。少し沢を下ると続きがあり、4畳ほどの更地がある。これが神社跡?本当に何も無いのか?不思議に思い少し先に進むとガレ場に出て急に視界が開けた。歩き始めて初めて乾燥した岩場に出会ったので、ようやく腰を下ろすことができる。中津川方面を眺めながら昼食。この山域は動物が少ないのでハエの数も少ないが、さすがにじっとしていると二十匹くらいがたかってチュウチュウしている。この辺りは大型動物が皆無のはずなのに何を餌に繁殖しているのか不思議でならない。

さて、ここからどうするか?中吾妻山に登る気力は湧かない。あの原生林だけは道無き場所に入り込む気になれない。空模様が思わしくないので、このまま引き返すか?ふとガレ場の上を見ると赤ペンキの矢印が上に向かっている。上に神社があるのかと思って行ってみると、矢印はガレ場を横断する方向を向き、反対側に赤布が見えた。ガレ場を流れる権現沢本流を渡って行ってみると、木の枝を切った跡がある。前年にヤケノママに行く道を復興しようとした人たちがいたらしい。これでヤケノママに行く希望が復活。チシマザサの急登では笹刈りをした跡があるので、複数名のパーティーが確固たる意思を持って突破していったと考えられる。道があるなら行ってしまおうと、急斜面を登ってみた。緩い斜面に出ると道筋が判らず、だんだんうまく辿れなくなってきた。迷いながら赤ペンキと赤布を見つけて少しずつ進むのだが、ペースが上がらない。10m踏み込んで何も見つからなかったら戻れるかどうか不安になる。そんな場所だった。赤布はついに深いチシマザサ藪の中に消えた。チラと見えた西吾妻山にはガスが発生し始めていた。これで撤退決定。暗い樹林をガレ場まで戻る間は生きた心地がしなかった。

13時52分 吾妻山神社跡復帰。   まっすぐ帰るつもりで権現沢のガレ場を渡り、さらに左岸の支流を渡ろうとした時、かすかに硫黄臭がした。ガイドブックには温泉の沢と書かれていたことを思い出し、源泉がどこにあるのだろうと上流側を見ると石碑のような物の頭が見えた。ご神体発見。権現沢を遡行してきた沢登りの人が吾妻山神社を見つけられなかったとか、登山道を見つけられなかったという話がある。吾妻山神社は権現沢本流ではなく左岸の支流にあるため、気づかず通り過ぎてしまうのである。歴史ある神聖な場所に詣でることができて十分に満足。日暮れまでに車に帰着するにはギリギリの時間帯なので、慎重に歩く。分岐点を過ぎたところで携帯電話が鳴った。まさかと思い出てみると会社からの電話だった。内容はともあれ、この深山で電話がつながるという事実に驚く。対面の西吾妻山に無線局施設があるのだろうか?それともデコ平のスキー場からの電波が届くのだろうか?

14時42分 姥神石像復帰(標高約1,625m)。   ご加護の御礼に置いてあった空のペットボトルにアミノサプリを注いできた。この後も快調。さすがに一気に600m以上下ると足が疲れる。

16時10分 唐松沢渡渉点復帰(標高約975m)。   汗臭い衣服を沢水で洗いリフレッシュ。帰りは林道を金堀集落側に下った。道はきわめて良好。途中にきれいな湧水があるのでおみやげに汲んでいく。

18時10分 車に帰着・歩行終了。   

木地小屋集落に抜けてやっと携帯電話が通じるようになった。山に泊まらず帰る旨を伝えると両親も安心したようだった。その夜、雨が激しく降った。あのまま藪を突破していったらどうなっていたのだろうか?時間的・体力的にヤケノママ行きは可能であったろう。しかし、初めての場所で夜は雨に降られて精神的にはかなりつらい思いをしたに違いない。登り始めてすぐに誤って廃林道に入り込んで時間を無駄にしたことはむしろ幸運であったかもしれない。

吾妻山系はデコ平スキー場ができる以前に西大巓に3回登っており、大体の様子は解っているつもりであった。しかし、消え入りそうな登山道を歩いてみて不安と緊張の連続で、自分の卑小さを思い知らされた。この山域は今まで歩いた山域で最も手強い。じっくり時間をかけて無理せず歩いてみたい。

関連記録

  中吾妻山越え・中津川遡行(吾妻山修験の跡探訪その3)(2005年9月)