吾妻山は福島県と山形県の県境に跨る、火山活動によって形成された広大な山体である。このうち、郷里の猪苗代に属し、西の中津川渓谷、東の大倉川渓谷に挟まれた中吾妻山と継森を中心とした山体は一般の観光客が入り込めない秘境である。中津川渓谷の出口付近は磐梯吾妻レークラインが走っているので、秋の紅葉の渓谷美を求める観光客で賑わう。大倉川も堰堤地帯には渓流釣客の姿が多い。しかし、どちらの渓谷も奥部は険しく、沢登りの人たち以外は入り込めない世界である。
この地域でまず着目したのは中吾妻山だった。こんな立派な名前がついていながら登山道が無い。アクセスしにくいだけでなく、西吾妻山と同じ様にアオモリトドマツに覆われているため登っても景色が期待できないためと思われた。ところが、山頂近くの鞍部には大倉川から中津川方面に抜ける峠道を示す破線路が記されている。登山路にしてはおかしい。ガイドブックにも紹介されていない。Webで調べたところ、かろうじて大倉川方面から鞍部まで辿ることは可能らしい。目的は何だったのか?どうやら中吾妻山西側中腹にある吾妻山神社に詣でるための道であったらしい。中津川渓谷を遡行する地獄駆けのことは父からも聞いたことがあったが、現代でも沢登りのベテランしか入り込まない場所なので、そのときはにわかには信じられなかった。吾妻山神社の存在を知ったことで、俄然、出身地の回峰修験行に興味が湧く。
この地域の修験道の中心となったのは現在の磐梯町にあった慧(え)日寺であった。大同2年(807) 徳一が行脚してから隆盛を極め、盛時には子院3800坊、寺僧 300人、僧兵数千人、寺領18万石を誇った奥州随一の大寺であった。元々は磐梯山信仰から発したと考えられるが、これに慧日寺の山岳仏教が合わさり、厩山、猫魔ヶ岳、磐梯山、吾妻山(一切経山)、安達太良山を巡る様々な回峰行が発生した。このうち、中津川渓谷を遡り権現沢の吾妻山神社へ至るコースは地獄駆けと呼ばれた。
この地域の山岳信仰については http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/fukusima3.htmが、より詳細については慧日寺資料館の資料が参考になると思います。
吾妻山神社から北に向かい県境の登山道に抜ける破線路も存在する。途中にはヤケノママなる地名がある。ヤケノママとは「焼野間々」すなわち地熱で温められた崖という意味にとれる。実際に行った人の記録ではまさにその通りらしい。しかも何万年も前に閉じ込められた岩魚の聖域でもあるという。普段、栃木の山を歩きながらも中吾妻山とヤケノママのことが頭から離れなくなった。夏休みに帰省したついでに登ろうと、昭文社の「山と高原地図 磐梯・吾妻」と国土地理院の2万5千分の1地形図「吾妻山」を購入して計画を練った。
計画はいつもの大雑把なもので、基本的には、中津川から林道を歩き、中吾妻山中腹ルートを通って吾妻山神社へ至る。その先のヤケノママに行く破線路の状態を確かめてから中吾妻山に登る。その後の選択肢は3つあり、@継森経由でヤケノママに抜ける、A再び吾妻山神社へ下ってヤケノママに抜ける、B中吾妻山から破線路を辿って谷地平に抜ける。最後はいずれも蒲谷地へ下って周回する計画であった(結果的には天候が安定せず安全策をとったため、周回をあきらめて往復することになった。)。
周回前提なので林道に車で入り込む訳にはいかない。磐梯吾妻レークラインを金堀から中津川に向かう途上に車を停められる日陰を見つけたので、ここから歩いていくことにした。
07時02分 磐梯吾妻レークラインから歩行開始(標高約750m)。 磐梯吾妻レークラインは秋元湖北岸に沿って尾根を横切るように走っているので距離が長く起伏も多い。朝の気温が17℃と低いので助かったが、前日の降雨で湿度が高いので、朝日を浴びる区間ではすぐに発汗する。
07時40分 中津川レストハウス到着(標高約840m)。 周回でなければここに車を置いていける。本日は快晴で、西大巓、西吾妻山、中吾妻山のいずれも雲が消えつつあった。レストハウス左の遊歩道に進入。道は次第に高度を下げて中津川の左岸に降り立つ。その先に道は無い。しかたがないので沢沿いに上流に向けて歩き、林道の橋の上流側で林道へ上がった。
08時01分 中津川登山口到着(標高約855m)。 中津川左岸の断崖上を歩く破線路が権現沢の1.5km手前まで続いている。その先どうやって進むのかは不明。草むらに落ちていた古い登山案内板には「中津川遡行者に告ぐ。このコースは下の土場から観音滝を過ぎ、上の土場まで東岸中腹を登ります。そこから沢遡りとなり、神楽滝50m下で東側の山腹を巻き、靜滝、熊落し滝、朱滝とこれを繰り返し、ヤケノママまで実動8時間、全行程 県境尾根を通り抜けるのに2日を要します。ご注意下さい。」とある。沢遡りの愛好家はもっと下流から沢底を歩き白滑八丁などを楽しむらしい。
昭和22年8月末、会津工業高校3年だった父は仲間と共に中津川を遡行している。友人の兄が山岳会員で地獄駆けコースの経験者であったため、その話を聞き修験コースを辿って吾妻山神社を目指したらしい。バスで秋元湖入り口まで移動し、秋元湖畔を歩き、最初から中津川左岸を遡行していったという。観音滝をはるかに過ぎたころ、にわかに空が掻き曇り、ものすごい土砂降りとなった。みるみるうちに中津川は増水。逃げ場所が無く、皆慌てて必死に沢を下り、なんとか東京電力の取水堰(中津川から中ノ沢経由で小野川湖に導水)まで達した。ひとりが空身でロープを持って渡渉し、皆ロープにつかまり右岸へ移動。東京電力の小屋に避難はしたものの全身ずぶ濡れ。寒くてかなわんということで小屋の壁の板を引っ剥がして燃やして暖をとったが、どうやって飯を食ったのかは覚えていないとか。
さて、林道は通行禁止になっており、誰に遭う可能性も無い。前日の降雨のせいで、道路にはみ出た草が触れるだけで既にズボンは濡れてしまっていた。快適な林道歩きのはずであったのだが、腹の調子が悪く2回も雉射ちとなりフキの葉っぱのお世話となる。
どの辺りが議場集落跡なのかは気づかなかった。こんな山奥に集落があったとは驚きだが、小倉川の奥には今も集落があるのだから猪苗代町は広く深い。きちんと調べた訳ではないが、昭和30年代頃までは木材の切り出しを生業とする人達の集落があったらしい。当然の如く、近くの破線路は皆廃道である。
08時38分 吾妻山神社登山口到着(標高931m) ガイドブックに書いてある入山届けを入れる物など無い。神社を探してしばしウロウロするも見つからない。登山口から入ってすぐの穏姿菩薩(姥神石像)は祖母の顔によく似ていた。
08時52分 唐松沢を渡渉(標高約975m)。 木製の橋は朽ちて崩壊。楽に飛び跳ねて渡れる。よさげな滝壺があるが、お魚さんは不在。渡った先にも林道が続いていたらしく、踏み跡がある。ここで地図を見ないで安易に林道跡へ進んでしまった。林道がそっくり残っている場所もあるが、ほとんどはチシマザサに隠れてしまっている。雨露でぐっしょりになりながら藪を漕ぐが沢から離れる様子が無い。そのうち沢を渡渉する場所に出た。渡ろうとして足が滑りしこたま向う脛を打ちつける。踏み跡はさらに対岸側に続くが、さすがにおかしいと思って地図を見て間違いに気づく。いったいどんな人物がこの道を歩いているのか不思議だ。
09時57分 渡渉地点に復帰・吾妻山歩道に入る。 渡渉点に戻って良く見ると「吾妻山歩道」と書いてある。いきなり1時間の無駄歩きでガックリ。しかし、怪我の功名というやつで、このおかげで無事に戻れたのかもしれない。
しばし登るとスギ林からカラマツ林に抜けた。よく手入れされた林で、開いたばかりの笹の葉が美しい。雨露にぬれてぐっしょりの上着を脱ぎ、以後はTシャツ一枚で通す。特に藪は無いので問題ない。
10時54分 カラマツ植林地からブナ帯に抜ける(標高約1,300m)。 突然チシマザサ笹の丈が高くなった。周囲を見渡すといつのまにかカラマツ林からブナ林に変わっていた。大木の数は多くはないが、緩い勾配の見事なブナ林である。エゾハルゼミの鳴声を聞きながら快適に歩いていくと、右側に沢音が聞えてくる。すこし藪を掻き分けて沢できれいな水を補給。ここはまともな沢だが、この時期は小さな沢でも水が流れているので水の補給には困らない。
11時28分 針葉樹林帯下限到達(標高約1,450m)。 明るい疎林で、チシマザサが鬱蒼としている。足跡は残っていないが、新しい筍がへし折られているので何日か前に歩いた人たちがいることが判った。だんだん岩がゴツゴツしだしてアオモリトドマツが鬱蒼としてくると雰囲気が悪くなる。岩は苔むしてツルツル。張り出した木の根もツルツルで足をはさむ危険大。要所に赤ペンキが塗られていて、新しい赤布もあるのでなんとか辿れるが、ガスにまかれたら歩く自信が無い。まったく特徴の無い樹林帯を歩くので、いつもの尾根歩きの感覚は通用しない。栃木県にこんな怖い場所は存在しない。この時点で藪漕ぎする気力は無くなっていた。
時折、古いブリキ板の道標が現れる。皆、「議場」と読み取れる。だいぶ昔に消えた集落の名なので、古いものに違いない。
12時26分 姥神石像到達(標高約1,625m)。 姥神様のおかげで大体の現在位置を特定。まだ神社までは遠い。腹が減ったが、吾妻山神社に着いてから昼食にしたいので、小さなパンで我慢。
やっと道が下り始めて、権現沢に近いことを知る。中吾妻山北の鞍部へ登る破線路の分岐点を意識しながら下ると、それらしき場所があった。大きな岩に不明瞭な赤ペンキのマークがある。何故か自分が歩いてきた方向は×印。反対側に○印。でも○印の上方には道跡を視認できなかったし、赤ペンキや赤布の類も見当たらなかった。足元に落ちていたA3サイズのビニールケースを拾い上げて汚れを落としてみると、昭和50年にここで消息を絶った息子さんに関する情報提供のお願いが書かれていた。息子さんを失った両親の悲しみがひしひしと伝わってきて、くれぐれも遭難だけはできないと自分を戒めた。いったい何があったのだろうか?とにかく道に迷ったのは間違いない。迷って沢方向に下ったら確実に死が待ち受ける。じっくり慎重に山の上に向かえば登山道に復帰できようが、体力的が尽きたか、足の骨を折ったかして動けなくなったのかもしれない。見つかる可能性はゼロだ。
13時00分 吾妻山神社跡到達(標高約1,525m)。 一旦道は沢で消えた。少し沢を下ると続きがあり、4畳ほどの更地がある。これが神社跡?本当に何も無いのか?不思議に思い少し先に進むとガレ場に出て急に視界が開けた。歩き始めて初めて乾燥した岩場に出会ったので、ようやく腰を下ろすことができる。中津川方面を眺めながら昼食。この山域は動物が少ないのでハエの数も少ないが、さすがにじっとしていると二十匹くらいがたかってチュウチュウしている。この辺りは大型動物が皆無のはずなのに何を餌に繁殖しているのか不思議でならない。
さて、ここからどうするか?中吾妻山に登る気力は湧かない。あの原生林だけは道無き場所に入り込む気になれない。空模様が思わしくないので、このまま引き返すか?ふとガレ場の上を見ると赤ペンキの矢印が上に向かっている。上に神社があるのかと思って行ってみると、矢印はガレ場を横断する方向を向き、反対側に赤布が見えた。ガレ場を流れる権現沢本流を渡って行ってみると、木の枝を切った跡がある。前年にヤケノママに行く道を復興しようとした人たちがいたらしい。これでヤケノママに行く希望が復活。チシマザサの急登では笹刈りをした跡があるので、複数名のパーティーが確固たる意思を持って突破していったと考えられる。道があるなら行ってしまおうと、急斜面を登ってみた。緩い斜面に出ると道筋が判らず、だんだんうまく辿れなくなってきた。迷いながら赤ペンキと赤布を見つけて少しずつ進むのだが、ペースが上がらない。10m踏み込んで何も見つからなかったら戻れるかどうか不安になる。そんな場所だった。赤布はついに深いチシマザサ藪の中に消えた。チラと見えた西吾妻山にはガスが発生し始めていた。これで撤退決定。暗い樹林をガレ場まで戻る間は生きた心地がしなかった。
13時52分 吾妻山神社跡復帰。 まっすぐ帰るつもりで権現沢のガレ場を渡り、さらに左岸の支流を渡ろうとした時、かすかに硫黄臭がした。ガイドブックには温泉の沢と書かれていたことを思い出し、源泉がどこにあるのだろうと上流側を見ると石碑のような物の頭が見えた。ご神体発見。権現沢を遡行してきた沢登りの人が吾妻山神社を見つけられなかったとか、登山道を見つけられなかったという話がある。吾妻山神社は権現沢本流ではなく左岸の支流にあるため、気づかず通り過ぎてしまうのである。歴史ある神聖な場所に詣でることができて十分に満足。日暮れまでに車に帰着するにはギリギリの時間帯なので、慎重に歩く。分岐点を過ぎたところで携帯電話が鳴った。まさかと思い出てみると会社からの電話だった。内容はともあれ、この深山で電話がつながるという事実に驚く。対面の西吾妻山に無線局施設があるのだろうか?それともデコ平のスキー場からの電波が届くのだろうか?
14時42分 姥神石像復帰(標高約1,625m)。 ご加護の御礼に置いてあった空のペットボトルにアミノサプリを注いできた。この後も快調。さすがに一気に600m以上下ると足が疲れる。
16時10分 唐松沢渡渉点復帰(標高約975m)。 汗臭い衣服を沢水で洗いリフレッシュ。帰りは林道を金堀集落側に下った。道はきわめて良好。途中にきれいな湧水があるのでおみやげに汲んでいく。
18時10分 車に帰着・歩行終了。
木地小屋集落に抜けてやっと携帯電話が通じるようになった。山に泊まらず帰る旨を伝えると両親も安心したようだった。その夜、雨が激しく降った。あのまま藪を突破していったらどうなっていたのだろうか?時間的・体力的にヤケノママ行きは可能であったろう。しかし、初めての場所で夜は雨に降られて精神的にはかなりつらい思いをしたに違いない。登り始めてすぐに誤って廃林道に入り込んで時間を無駄にしたことはむしろ幸運であったかもしれない。
吾妻山系はデコ平スキー場ができる以前に西大巓に3回登っており、大体の様子は解っているつもりであった。しかし、消え入りそうな登山道を歩いてみて不安と緊張の連続で、自分の卑小さを思い知らされた。この山域は今まで歩いた山域で最も手強い。じっくり時間をかけて無理せず歩いてみたい。
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